通勤時間は、給料から天引きされている。
年収が上がる転職の話になると、人は急に計算が雑になります。
年収が50万円上がる。
会社の名前が少し良くなる。
職種も悪くない。
求人票の条件もそれなりに見える。
そうなると、「通勤が少し長くなるくらいならまあいいか」と思ってしまう。
でも、その「少し」は毎日来ます。
月曜日にも来る。雨の日にも来る。眠い日にも来る。残業した夜にも来る。電車が遅れた日にも来る。
通勤時間は、転職のときだけ軽く見える固定費です。入社したあと、毎日きっちり回収されます。
年収は大事です。きれいごとではありません。
ただし、通勤時間、睡眠、余暇、平日の機嫌まで削られるなら、その年収アップは本当に得なのか。そこを雑に扱わない方がいいです。

1 高収入の仕事は、通勤の損を隠す
シーナ・アイエンガーの『選択の科学』に、仕事選びでかなり嫌なことが書いてあります。
人は高収入の仕事に惹かれます。
それ自体は普通です。
お金があれば、家賃の不安が減る。教育費を払える。貯金もできる。将来の選択肢も増える。年収が高い仕事に惹かれるのは、かなり合理的に見えます。
ただし、アイエンガーはそこで終わりません。
「高収入の仕事に強く惹かれる」一方で、「通勤の精神的費用」や「余暇時間の喪失」を計算に入れていないのではないか。
シーナ・アイエンガー『選択の科学』櫻井祐子訳、文藝春秋、p.166より一部抜粋・要約
この指摘が痛い。
年収は数字で見えます。
月給も賞与も、求人票に書けます。
でも、朝の満員電車で削られる機嫌は求人票に書かれません。帰宅後に何もする気が起きない感じも、年収欄には出ません。子どもと話す時間、夕飯をまともに食べる時間、ぼんやりする時間も、求人票のどこにも出ない。
高収入の仕事は、見える得を大きく見せます。
通勤は、見えない損として毎日引き落とされます。
ここで人は間違えます。
「年収が上がるから少し遠くてもいいか」と思う。
でも、その少し遠い会社に、毎日行くのは未来の自分です。
2 『選択の科学』が言っているのは、ただの通勤嫌いではない
『選択の科学』のこの箇所は、単に「通勤はしんどいよね」という話ではありません。
もっと嫌な話です。
人は、選ぶときに見えやすいものを重く見ます。
年収、家の広さ、学校の評判、会社名。こういうものは見えやすい。
一方で、毎日の疲労、余暇の喪失、平日の機嫌、家に帰ったあとの気力は見えにくい。
だから軽く扱われます。
アイエンガーは、カーネマンらの研究を引きながら、通勤についてこう書いています。
「通勤は、平均的な人の一日のうちで群を抜いて最も不快な時間」
シーナ・アイエンガー『選択の科学』櫻井祐子訳、文藝春秋、p.166より一部抜粋
ここを読み飛ばさない方がいいです。
「通勤が少し長いだけ」ではありません。
一日の中でかなり不快な時間が、毎日増えるという話です。
さらに、広い家や良い学校のためなら長い通勤も我慢できる、と考える人についても、同書はかなり強く釘を刺しています。
「通勤時間のデメリットを相殺することは、まずない」
シーナ・アイエンガー『選択の科学』櫻井祐子訳、文藝春秋、p.166より一部抜粋
この断定はきつい。
でも、転職でも住宅購入でも、かなり刺さる話です。
良い家は見えます。
広い部屋も見えます。
学校の評判も見えます。
年収アップも見えます。
でも、毎朝の通勤で失われる機嫌は見えにくい。
見えにくいものを軽く見て、見えやすいものだけで選ぶ。
それで人生が良くなるとは限りません。
3 カーネマンらの研究では、通勤は楽しさの低い活動として出てくる
アイエンガーが触れているのは、ダニエル・カーネマンらの Day Reconstruction Method(DRM)研究です。
DRMは、前日の行動を映画の場面のように思い出し、何をしていたか、そのときどう感じていたかを記録する方法です。カーネマンらの論文では、働く女性909人の前日の活動と感情が分析されています。[1]
論文では、活動ごとのポジティブ感情・ネガティブ感情などが表にされています。そこに通勤が出てきます。
“least enjoyable activities of working, housework, and commuting.”
日本語訳:
「仕事、家事、通勤は、楽しさの低い活動群に入る。」
出所:Daniel Kahneman et al., “A Survey Method for Characterizing Daily Life Experience,” Science, 2004.[1]
さらに表を見ると、活動別のポジティブ感情の平均値は、通勤が3.45、仕事が3.62、家事が3.73です。友人との交流は4.36、くつろぎは4.42です。[1]
つまり、通勤は「まあまあ嫌だけど我慢できる移動時間」ではありません。
日常の中で、かなり低い側にある活動です。
もちろん、この研究は米国の働く女性を対象にしたもので、日本の通勤事情そのものを測った研究ではありません。
そこは混ぜない方がいいです。
それでも、「通勤を軽く見るな」という判断材料には十分です。
転職先を選ぶときに、年収と会社名ばかり見て、通勤時間を最後に処理するのは危ない。
通勤は、最後に見る条件ではありません。
毎日の生活を削る条件です。
4 Stutzer & Freyの研究では、長い通勤は生活満足度の低さと結びついている
通勤の話でもう一つ使いやすい研究があります。
Alois Stutzer と Bruno S. Frey の “Stress That Doesn’t Pay: The Commuting Paradox” です。
この研究は、ドイツのパネルデータを使い、通勤時間と主観的幸福度の関係を分析しています。[2]
論文は、通勤時間が長い人ほど、生活満足度が低い傾向にあると述べています。
“people with long journeys to and from work are systematically worse off”
日本語訳:
「職場との往復が長い人は、体系的に不利な状態にある。」
出所:Alois Stutzer and Bruno S. Frey, “Stress That Doesn’t Pay: The Commuting Paradox,” IZA Discussion Paper No.1278, 2004.[2]
もう一つ、かなりはっきりした表現があります。
“negative effect of commuting time on life satisfaction”
日本語訳:
「通勤時間は生活満足度に負の影響を持つ。」
出所:Alois Stutzer and Bruno S. Frey, “Stress That Doesn’t Pay: The Commuting Paradox,” IZA Discussion Paper No.1278, 2004.[2]
この研究で面白いのは、通勤時間が長いなら、その分だけ賃金や住宅条件で埋め合わせされているはずだ、という経済学っぽい見方を疑っているところです。
論文では、平均的な片道23分の通勤について、それを完全に埋め合わせるには平均月収の約18.86%にあたる追加月収が必要だと推定しています。片道1時間の通勤では、平均月収の約40%にあたる追加月収が必要だという推定も出ています。[2]
これを日本の全員にそのまま当てはめる必要はありません。
国も時代も交通事情も違います。
でも、方向は見えます。
通勤は安くありません。
かなり高い。
「年収が少し上がるから、片道20分くらい増えてもいいか」と雑に考えるのは危ないです。
5 片道15分増は、年120時間を消す
研究の数字を見ても、まだピンとこない人は、自分の時間で計算してください。
片道15分増える。
往復で30分。
平日240日働くと、年間120時間です。
120時間。
丸5日です。
睡眠を除けば、もっと大きい。
片道30分増なら、年間240時間です。
10日分です。
この時間で何ができますか。
- 寝られる
- 運動できる
- 資格の勉強ができる
- 子どもと話せる
- 夕飯をまともに食べられる
- 何もしないでぼんやりできる
何もしない時間を軽く見ないでください。
何もしない時間がない人間は、だいたい壊れます。
または、壊れていることに気づかないまま、機嫌の悪い会社員になります。
6 高年収転職で見るべきなのは、年収と通勤の差し引き
年収が上がる転職を否定しているわけではありません。
年収は大事です。
給料は低いより高い方がいい。
これは当然です。
ただし、年収が上がるなら、その分だけ通勤時間を見なくていい、ということにはなりません。
次の表で見てください。
| 転職条件 | 見えやすい得 | 見えにくい損 | 確認すること |
|---|---|---|---|
| 年収50万円アップ | 月収・賞与が増える | 通勤が伸びると平日が削られる | 手取り増と年間通勤時間を並べて見る |
| 会社名が良くなる | 職歴の見栄えが良くなる | 出社頻度・勤務地変更で疲弊する | 在宅勤務の実態と配属先勤務地を聞く |
| 広い家に住める | 住環境が良くなる | 長距離通勤で平日の機嫌が悪くなる | 家族の生活時間まで含めて見る |
| 郊外で家賃が下がる | 固定費が下がる | 移動時間と交通ストレスが増える | 家賃差と通勤時間の増加を比較する |
年収アップは一発で分かります。
でも、通勤の損は分解しないと見えません。
だから、転職判断では必ずこう聞いてください。
- 片道何分か
- ドアツードアで何分か
- 乗り換えは何回か
- 混雑時間帯はどれくらいか
- 出社頻度は本当に週何日か
- 配属先や勤務地変更の可能性はあるか
- 在宅勤務は制度だけか、実際に使えるか
「最寄駅から徒歩5分」みたいな求人票の言葉で満足しない方がいいです。
あなたの家の玄関から、会社の席まで。
そこが通勤時間です。
7 長距離通勤でも選んでいい場合はある
もちろん、長距離通勤を全部否定しているわけではありません。
選んでいい場合もあります。
たとえば、次のような場合です。
- 年収アップがかなり大きい
- 在宅勤務が多く、実際の出社日が少ない
- その会社でしか得られない経験がある
- 一定期間だけ我慢する明確な理由がある
- 将来の勤務地変更や在宅移行が現実的に見えている
こういう場合は、通勤時間が長くても選ぶ意味があります。
ただし、「なんとなく良さそう」「会社名がいい」「年収が少し上がる」くらいで長距離通勤を選ぶのは危ない。
長距離通勤は、気合いで解決する問題ではありません。
最初の3か月は耐えられるかもしれない。
でも、仕事は3か月で終わりません。
1年、2年、3年と続きます。
通勤時間は、入社後にだんだん本性を出してきます。
8 転職エージェントに聞くべきこと
転職エージェントを使うなら、年収や職種だけでなく、通勤まわりを具体的に聞いてください。
聞くべきなのは、こういうことです。
- 出社頻度は実際に何日か
- 配属部署ごとに在宅勤務の使われ方は違うか
- 面接時に勤務地変更の可能性を確認できるか
- 転勤・異動・客先常駐の可能性はあるか
- 残業後に帰れる時間は現実的に何時か
- その会社は在宅勤務を制度として残しているだけではないか
求人票だけでは足りません。
「在宅勤務あり」と書いてあっても、実際には部署次第ということがあります。
「駅近」と書いてあっても、家からその駅までが地獄なら意味がありません。
転職エージェントに聞く価値があるのは、求人票に書いていないこういう部分です。
ただし、エージェントの言うことを全部信じる必要はありません。
エージェントにも利害があります。
聞く。
確認する。
面接でも確かめる。
最後は自分で決める。
この順番です。
9 まとめ
通勤時間は、転職判断で軽く見られがちです。
年収は数字で見える。
会社名も見える。
家の広さも見える。
学校の評判も見える。
でも、平日の機嫌は見えにくい。
余暇の喪失も見えにくい。
帰宅後に何もできない疲れも見えにくい。
アイエンガーが『選択の科学』で書いているのは、まさにそこです。
高収入や良い住環境という見えやすい得に引っ張られて、通勤という見えにくい損を軽く見ていないか。
カーネマンらの研究でも、通勤は日常の中で楽しさの低い活動として出てきます。Stutzer & Freyの研究でも、長い通勤は生活満足度の低さと結びついています。
転職で年収を上げるのは悪くありません。
むしろ、上げられるなら上げた方がいい。
でも、年収アップの裏で、毎日どれだけの時間と機嫌を払うのか。
そこまで計算してください。
通勤時間は、給料から天引きされている。
求人票には書いていないだけです。
参考文献
- Daniel Kahneman, Alan B. Krueger, David A. Schkade, Norbert Schwarz, Arthur A. Stone, “A Survey Method for Characterizing Daily Life Experience: The Day Reconstruction Method,” Science, 2004. PDF
- Alois Stutzer and Bruno S. Frey, “Stress That Doesn’t Pay: The Commuting Paradox,” IZA Discussion Paper No.1278, 2004. PDF
- シーナ・アイエンガー『選択の科学』櫻井祐子訳、文藝春秋、p.166
